”あたらしい”教科書は、いつまであたらしいのか


この前、ふと、「シン〇〇」という造語が世に溢れているけれど、表記としては「シンエヴァ」が初出であって、ただ、新〇〇みたいな感じ表記も入れると、何が初出なのかな、と思っていた。

そもそもカタカナということで、漢字の当てはまりが意味されて(フリガナ的な役割が強調され)、「神」「深」といった他のシンの感覚も被ってくるのが、この「シン〇〇」の妙なのだが、一応は「新」という意味合いが中心にあると考えてみたい。

このシン/新〇〇、これだけ使われるには、やはり何かが日本人の心を掴んでいるのであって、たとえば、意味は違うけれど、”元祖”とか”生”に近い広がりがある。

で、そもそも「新しい」という言葉は辞書的には以下になる。

あたらし・い【新しい】 の解説
[形][文]あたら・し[シク]《上代の「あら(新)たし」が「あたら(可惜)し」と混同して音変化し、平安初期から生じた語》
1 その状態になってからあまり時間が経過していない。

㋐初めてである。「—・く事業を興す」

㋑できて間もない。使い始めて間もない。「空き地に—・く家が建つ」「—・いステレオ」⇔古い。

2 以前のものと違っている。「顔ぶれが—・くなる」「原稿を—・く書き直す」「—・い制度」「—・い年を迎える」⇔古い。

3 現代的である。進歩的である。また、奇抜である。「—・い感覚」「—・い技術」⇔古い。

㋐食べ物などが、新鮮である。「—・い魚」「—・く採れた野菜」⇔古い。

㋑まだ生き生きとしている。また、初めてで新鮮である。「記憶に—・い事件」「耳に—・い話」

出典:デジタル大辞泉(小学館)


意味の違いをハッキリさせるために敢えて英語で訳すと、1がfirst、2がnew、3がadvanced、4がfreshといった感じか。

では、前段で使わている”新”もしくは”シン”はおそらく3の意味合いが強いだろう。
それこそ刺身を美味しく食べるための”あたらしい”は、古くない(腐っていない)という新鮮な状態を指しているから、何か状態の良さを示すための意味合いとは、シン/新〇〇は違っているだろう。

3の意味合いで考えると確かにしっくりきて
「新横浜」は今までの横浜と違って、新しい新幹線(そもそも新しい電車!)が通るモダンな駅であるから、接頭に新が着く・・・そんなイメージだろうか。とはいえ、この乱立する新〇〇駅に「何が新しいんだ」という常識的な疑問は拭えないが。

ただ、この進歩的な意味合いは、むしろ、進歩的だったり未来的なことを抑圧するために生まれたような気がしている。何か捻れて「シン〇〇」と言わざるをえない、日本人的な抑圧を感じる。個人的に思うのが、日本文化や社会で「新しい」ものが生まれることは、どれだけあるのか、ということである。「守破離」という言葉あるように、伝統技術や芸術においては、まずはその型を守るのが正しいとされている文化に対して「新しい」ことが自然発生することはあるのだろうか。

教科書は、いつだっても「あたらしい」がくっついている。

これは理由としては

本社の小学校、中学校用教科書の書名に採用された「新しい」という形容詞は、検定教科書発行の意義を全社員に徹底させるために、広く社内から書名案を募集し、その中から選定したものであった。これは、新生日本の教育を担う教科書であることを表すとともに、「あ、た、ら」はともにア段で音感上雄大性を、「し、い」はともにイ段で謙譲性を表すものであり、別案にあった「最新」より、常に前進して止まるところを知らない姿勢を語勢上示すものとして決定されたのである。(昭和)二十三年九月を創刊号として発行された機関誌名を「教育復興」としたのも、近代の黎明を告げるルネサンス(文芸復興)にちなんで命名されたものであった。いずれも、新しい国づくりに参加するものとしての自覚と気概とを示すものであった。

『近代教科書の変遷 東京書籍七十年史』1980年刊


であるからして、戦前への反省なのだが。この「あたらしい」という言葉が、実は地続きで身体的にも連続しているはずの空間を区切って、ある種の贖罪として使っていることぐらいは、小中学生でも薄々気がついている。

このいつまでも「あたらしい」教科書と、「新〇〇」という抑圧された進歩主義、この2段の「あたらしさ」を正に「あたらしく」したのがシン〇〇だろうか。