「京都水盆」から考える、現代的コモンとこれからの都市像:松田法子 連載・『人と地球の共構築に向けて』
https://wired.jp/article/shore-travelogue-04/?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR2sFYiPOph_RBsEWzJq8h7hL-ti_Th7IWDpAJ9sslUT0S7lyLP91KeFPC8_aem_AfdZRm9uUJnY9Juxyl4qvtmF9zMKq08z4_kX6qsJN1Qi18G9O_RsWz_Ukd29-aoV0xFuYmsWXPcgYAzBKabvYtwd
共有財*common goodsとしての「水」みたいな視点もあるのだが、面白かったのは、
「京都の地下には、琵琶湖に匹敵する巨大な水がめがある」。京都に住む多くの人が、恐らく一度は耳にしたことがあるフレーズではないかと思う。その「水がめ」は、京都盆地の地下構造の特質ゆえに備えられたものだ。
京都盆地の地下に蓄えられている甚大なその水量を試算し、かつまた地下水をたたえるくぼみの姿を「京都水盆」という呼び名と共にビジュアル化したのは、関西大学環境都市工学部の楠見晴重さんである。
という点。
京都にはかつて、多数の名水・名井戸があった。『枕草子』には名水として九つの井が挙げられ、都七名水、茶の七名水、西陣五水、伏見七名水など、名井のラインナップは京都内の地域ごとにある多彩さであったが、なかでも三名水と呼ばれたのが、染井、縣井〔あがたい〕、佐女牛井〔さめがい〕である。
このうちの染井は、今でも水が汲めて、この水を使ったコーヒー屋があるとのこと。
平安時代の「逢う」は、ストレートに「セックスする」ということです! 橋本治が明かす百人一首の楽しみ方
https://gendai.media/articles/-/48476?page=1
橋本治さんは日本の古典から現代社会まで解説として、優しくも嫌らしいところが好きだ。
ビジネスマンや官僚は外国語が好きで、やたらとカタカナ言葉を使います。その意味を知らないと、「バカか?」とか「勉強不足」と言われてしまいます。社内の公用語を英語にした企業もあります。
外国語を知らないとちゃんとした仕事が出来ないというのは今に始まったことではなくて、昔からです。奈良時代以前から、日本の公用語は漢文で、中国語を日本的に読んで公用文書にします。「漢文のほうが上等だ」という風潮は今でも残っているから、いざという時には四字熟語を決めゼリフのように使います。
これに対して、日本の古典の中核をなす和文脈の文章は、女によって磨き上げられて完成されたものですから、根本のところで女っぽくて、漢文よりは低く思われます。
「やまとうた」の設立背景と、だからこその現代サラリーマン社会との馴染みの悪さに対する指摘は慧眼だ。
平安時代に「逢う」といったら、これはもうストレートに「セックスをする」です。
なにしろこの時代の女は、下ろした御簾(みす)の向こうにいます。男がやって来ても、御簾の内側に厚い几帳を立てて、男の言うことを一方的に聞くだけで、直接話をするどころか、身動きしてそこにいる気配さえ感じさせません。話をするのは中継ぎの女房を通してだけで、密室性の少ない空間にいるのに、「そこにいるらしいな」と思えりゃ上等なのが普通です。
だから、そういう相手と「逢う」ということになったら、「してもいいわよ」というOKが出たのと同じです。御簾の中に男が入ったら、もう「やるだけ」です。そうなるまでも中間行為などというものはありません。
「逢う」ということはそういうことで、「それがなかったら」ということを読んでいるのがこの歌です。つまり、「セックスということがなかったら、俺は他人も恨まないし、自分にもイライラしないだろうさ」というのが、この歌なのです。真面目な男子中学生の心の叫びみたいなものですが、この歌の作者は中納言という身分の高い男です。
まるでねちっこい演歌の歌詞のようなこの和歌が言っていることは、「ああ、やりてエ!」なのです。
古典を真面目に解説されても「ほんまかいな」と思っていたので、なるほどと思った。いつの時代も言葉は変わっても、情動は変わらないのだろう。
「日本の俳句、五七五の形式を使ってラップできるという発見すご。」
https://twitter.com/MOITO092/status/1746075417038266699
いや、ほんとに?笑と思ってしまったが、コメントの「575って、休符入れて普通に16ビートなのでなんの不思議もない。337拍子もね。」というのが面白かった。