スミレはどう咲けばいいのだろうか


岡潔の『春宵十話』という本の出だしにこうある
”私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただのスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどうような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。”

僕はこう思った。「たしかにそうだが、現代で、スミレはスミレとして咲き続けることができるだろうか」。

ーーーーー

 スミレは、たしかにスミレとして非干渉の立場として美しく咲いていた。
 そのうち、春の野は、スミレの名景として有名になり、スミレおよび春の野を一目見ようとたくさんの人が押し寄せるようになった。春の野は儲かった。豪華な施設が立ち始め、お土産がたくさんできた。
 スミレは、今までより、踏まれることが多くなった。押し固められた土のせいで呼吸が苦しくなった。多少の我慢も度を越して、文句を春の野に言わざるを得なくなる。春の野や他の者たちもたしかにスミレに枯れては困ると思って、ウッドデッキの歩道スペースを作り、スミレの住処を荒らされないようにはした。
 そのうちに、温暖化でスミレの咲く時期がまちまちになってきた。春の野は、スミレに文句をいった。春休みが始まる時期には咲いてもらわないと観光客が来ないから、困る。これからは多少無理しても、その時期には咲いてくれ、と。スミレは、それは私には関係ないことだと返すが、君のための作った歩道の代金を回収しないといけない、君がそもそも文句を言ったから、我々もビジネスしているんだと逆に返される。お土産含めスミレのおかげで儲かっているやつらは、こういうときは何も言わない。それからスミレは多少不細工だろうと同じ時期に咲かざるを得なくなった。
 賢いやつが、この名勝地のすぐ近くでスミレによく似た外来の花を植えはじめた。大陸仕込みの強い種ですぐにたくさんの数が増えてきた。彼らはスミレではないが、スミレと名乗っている。お客さん誰も気が付かないし、むしろ、気がつきたくないだろう。偽スミレの一派は、お土産をつくり、販売し、ツアーを敢行し、勢力を伸ばす。偽スミレがたくさん生えるから、スミレの栄養はなくなり、徐々に咲けなくなってきた。スミレは、あんまりだと言うが、彼らは、こういう商業地域で咲くには、無頓着すぎる、その伝統性を守るべきならもっと戦略的になるべきだと言った。その翌年から、スミレは咲けなくなってしまい、未だ人も寄りつかない山の麓に少しばかり親族が残っているだけだ。

ーーーーー

スミレは、どう咲けばよかっただろうか。