「オーガニック保守」が可視化する〈暮らしの不安〉──参政党はいかにして現れたのか

※AIの文章をベースにしてます。

1. 「保守=制度的思想」ではなかった戦後日本

まず、日本における右派政治の特異性として重要なのは、西洋的意味での「保守主義」がほとんど根づかなかったという事実である。制度や伝統、国体を思想的に擁護する保守主義は、戦後日本においては早くも機能不全に陥っていた。たとえば三島由紀夫は、自衛隊という「象徴なき軍隊」に国家理念の欠如を見出し、日本の保守は「経済成長と対米追従によって成り立つ現実擁護の言語にすぎない」と痛烈に批判した。

ここに見られるのは、保守が制度を守る思想ではなく、「いまの暮らしの延長線」を守るものとして変質していったという、現代の自民党的現状維持路線とも言える、きわめて日本的な政治文化である。これは後の「生活保守」の土壌となり、制度や理念ではなく「安定した日常の維持」が政治選択の基準となっていく。

また、「保守」と「革新」が理念対立として存在したかのように語られることがあるが、それは冷戦構造という外在的条件の中で演出された形式的な構図にすぎなかった。実際には、日本政治における中心的なイデオロギーは、「成長」「分配」「安定」を優先する経済的全体主義、すなわち護送船団方式によるマネジメント主義であった。政治家たちが信じていたのは思想ではなく、官僚主導の調整秩序だった。だが1990年代以降、その土台が失われ、政治は理念を持たず、単に個人の感性と不安が浮遊する空間となっていった。


2. 政治の「感性化」と理念の空洞化

1990年代以降、この生活保守はさらに「感性の政治」へと転化する。小泉純一郎による劇場型政治や、マニフェスト選挙、あるいは「市民感覚」「改革派首長」などの言説に表れているように、政治家の“人柄”や“親しみやすさ”が重要視されるようになる

ここで政治は、「(見せかけの)理念を競う場」から「共感を媒介する場」へと変質する。制度的な保守でも革新でもなく、「私たちの気持ちをわかってくれる人かどうか」が投票行動を決定づける基準となっていく。これは参政党が後に採用する、動画による「語りかけ」や「真実に気づこう」という手法に先駆するものでもある。


3. 可視化されなかった中間層の不安

2000年代に入ると、小泉改革による新自由主義的政策のなかで、非正規雇用が急増し、家族や教育も「自己責任」の文脈で語られるようになる。特に「就職氷河期世代」に代表される中間層は、見た目には貧困でもなければマイノリティでもないため、**社会的に“可視化されないまま不安だけが蓄積していく”**状況に置かれた。

この層は、左派の再分配論からも、右派の秩序論からもこぼれ落ち、政治的に語られることなく20年近く沈黙を強いられてきた。そしてこの不在の言語が、SNSの登場とともに一気に「自己語り」として噴出していく。


4. SNSとYouTubeが“価値意識”を政治化した

2010年代後半から、YouTubeやSNSの影響で、これまで「政治的ではなかった」日常的価値——食、健康、育児、学校、医療など——が次々と「真実/偽り」「目覚め/洗脳」といった語彙で語られ始める。これは思想的右派とは異なり、“自然に生きたい”“子どもを守りたい”“病気になりたくない”という極めて生活実感ベースの動機である。

参政党はまさにこの領域に入り込み、「あなたの感覚は正しい」「今まで騙されてきた」と語りかける。そこには、従来の政治の文脈では語られなかった「暮らしの防衛感覚」が強く表れており、それこそが**“政治化していなかった価値意識”を顕在化させた**という意味での大きな意義である。


5. 「オーガニック保守」としての参政党

こうして参政党は、二つの異なる層を結びつけるに至った。一つは、都市部中産階級の「自然派志向」「オルタナティブ教育」「代替医療」への関心を持つ層。もう一つは、氷河期世代を中心とする中年男性の「社会的承認からの脱落」に対する怨念。この両者は本来、政治的には交わらないはずだったが、**「感性」「暮らし」「本来の日本人らしさ」**という曖昧だが共通する情動言語によって結びつけられた。

ここにあるのは、極右でも伝統主義でもない、“オーガニック保守”とも呼ぶべき政治感覚である。彼らは国家を取り戻したいのではない。「正しい食」「自然な暮らし」「子どもを守る教育」など、制度外の倫理を生活の中に再構築したいという願いを持っている。そしてそれは、自民党にも立憲民主にも語れなかった領域であった。


結語:言語なき領域が、政治化されてしまったという事実

参政党は理念的に見ればきわめて問題が多く、科学的根拠の乏しい言説や排外的な含意を含んでいる。しかしそれでもなお、無視すべきではないのは、これまで政治によって名指されることのなかった「日常の不安」が、ついに政治化されたという点にある。

つまり、参政党の本質は「右翼的」であることではなく、「いままで政治にならなかったものを、感性と日常の語彙で政治にした」点にある。それはまさに、「保守=制度を守ること」ではなく、「今の暮らしの延長線を守ること」という日本的保守の変容の、ある種の帰結である。

この変容は一過性のものではない。制度や理念ではなく、「体感的リアリティ」によって政治を選ぶという傾向は今後も強まるだろう。参政党は、その危うさとともに、政治の地殻変動の震源であることに変わりはない。