なぜか、「Youtube番組『フルタの方程式』を肴に(芥川賞作家の)滝口さんと対談してほしい、ライターは『文化系のための野球入門』を書いた中野さん」という、見たことない豪速球のお誘いがきて、ちょうど昨日お話ししてきた。
きっかけはこのブログだそうで、誰も見ないブログでも書いていればいいことある。
石渡さんという写真家の女性が、WBC2023から野球にハマり、そのまま自分で本を作ろうという、これまたピュアのストレート、というかホップ気味に真っ直ぐな意思と行動で、すごく良い。ちなみに、草野球チームにも入っているらしい。
小学校でしか僕は野球はやっていないので、とどのつまり、野球論は僕はそこまで語れないので、果たして、これは役として適当なのかという冷や汗もありながら、結局、話したいことを勝手にたくさん話した(これは良くない癖だ)(年を取ったからか、自分語りが長くなっている気配がある)。
身体性、という言葉をめぐる後半でのやり取りが印象に残っている。
つまり、身体とそれを巡る環境、物理的で物質的なものにある情報をめぐって、どう感覚的な抽出をするか、そして、それをどう表現するかで、その人の身体性は言語的な主観性を帯びる、ということ。スポーツらしくいえばセンスである。
僕は、それは感覚的にはクセに近いなと思った。
スポーツでいうと、この身体性表現と意識は、スポーツ動作における成功(ホームランをうつ、相手から1点とる・・)的な所作が目的として合致している限りにおいて、センスのある動き、と言えるのだが、ここで身体表現がその目的の手段の段階で(例:バットを小さく振る)、件の大前提たる目的を忘れて強固な意識として身体を支配すると、いわばセンスのない動きとして、うまくいかなくなる。つまり、野球の神様、落合博満に言わせると”××な打ち方だからヒットを打てた”のではなく、”ヒットを打つために××の打ち方をした”、ということである。
だから、強い選手になればなるほど、フォームや動作において、意外と客観的な表現ができる人は少ない。「だって、ヒットを打つためには身体をこうする”しかない”じゃん」、という発想が自然にもててるからだ。
だからこそ、現代のコーチングというのは、正解を押し付けるやり方でなく、その人の自身の考え方や言語感覚から、この身体性とプレーイングの誤差を見出し、よりより方法や意識に軌道修正していくのが必要。という、コミュニケーションレベルが少し高度な、いわば文化系なやり取りが必要になっているよね、と。これは、逆の目線も同じで、選手も自身で別個の方法論を取り入れて、チームやコーチに背いてもダメで、その方法論における身体性や方法論をしっかり共有していかないと、そこからの指導や成長に繋がらない。
刊行時には、みんなで野球をするとのことで。偉そうなことを言ったわりのプレーにならないようにがんばりたい。