「超かぐや姫」をみた。
シンプルな感想。全くわからなかった。
SFなのか、現実社会を前提にしたファンタジーとしているのか、設定がまずわからない。たとえば、ヘッドフォンをして、仮想空間にダイブしていく瞬間、これがまず説明や背景もなく、すごく違和感だった。
でも結局、これが今のVTuberに見られるような2次元消費(なのか)。アバター自らが身体性を持っているという信仰がないと見られないかもしれない。話の筋も、すべてシミュラークル的。つまり、定番アニメ的な物語のデータベースに沿って進んでいく。
とにかく身体性がない。仮想現実や電子的な世界に感覚や感情がある、という前提が曖昧に感じる。それがダメだというわけでなく。現実世界に生きながら、それと物理的に同じようなバーチャルな世界での実体をもてる、というのがなぜ成立するのか。ここはSF的設定がないなら、感覚としての体験、単に「これは表現としての比喩ですよ」、というのも成立する。たとえば、『マトリックス』なら、実体をもつ人間が、何かしらのコードに繋がっていて繭のような機械に入っている。映像で起きていることは彼らが脳および神経が直接体験する仮想現実である。そういう説明がつく。
だが、この作品内では、その前提が説明なく進み、起きていることの大半は仮想空間で都合よく進み、話を進めるために現実社会にたまに立ち寄る、というご都合主義を感じてしまう。この仮想空間の「欲望」とリアルな「現実社会」が曖昧になっていき、それでいてポップなアニメ的展開にはついていけなかった。最後の肉体が戻ってくるあたりも、もう結局何が現実で何が仮想かわからない。もう、逆にデビッド・リンチのような世界観すら感じた。
現実社会の感覚すら電子的に置き換えられるとしたら(全ての感情は脳の電子的な反応にすぎない)、現実社会にはどれだけ意味が残るのか、SFの多くの作品はその哲学的な問題に挑んてきた。この作品は、敢えてその点をスルーして、現代的なVTuberファンダムの物語をつくりたかったのか、かぐや姫という時を超えた存在と女子高生の出会いをつくりたかったのか、リアルなのかファンタジーなのかが、結局不明だった。結果、これが流行っているのはそういう点を疑問に思うのは古いからだろう・・・そう、僕が時代遅れなのだ。
あと、ちゃんと見たはずなのに、これは3人でアイドルをしているのかとか話の筋が色々と分からない。でもWikipediaをみたら、ちゃんと詳細まである。しかし、映像の中では表現されていたのか・・・もしかしたら、そういう設定を見てから行く今っぽい体験なのか。